青森の海で獲れる有名な魚介類といえば「ホタテ」です。
現在漁獲量は北海道に次ぐ全国第2位です。
ちなみに青森の海とホタテは縄文時代からの長い歴史があります。
それほど青森の人にとってホタテは身近な存在です。
今回は、青森の海で獲れるホタテの歴史についてわかりやすくご紹介します。
実は青森ではホタテは縄文時代から食べられてた魚介類です。
その根拠は青森の各地の遺跡からホタテの貝殻が出土しているからです。
もっとも有名なケースが三沢市山中貝塚です。
三沢市山中貝塚からは縄文時代早期、約8000年前のホタテの貝殻が出土しています。
青森県は縄文時代の遺跡が多い県です。
多くの遺跡で海産貝類が出土しています。
そんな中、ホタテの貝殻は縄文遺跡79カ所のうち、20カ所の遺跡から出土しています。
これからわかることは、当時青森の各地に住んでいた縄文人はホタテをよく食べていたということです。
現在、青森の海でホタテがよく獲れる場所は「むつ湾」です。
ところが縄文時代はむつ湾ではありませんでした。
理由は出土したホタテの貝殻の分布から場所を予想するとほぼ太平洋沿岸だからです。
しかも現在はどこも陸地ですが当時は海だった場所でした。
これからわかることは当時の縄文人は青森の太平洋沿岸の海でよくホタテを獲って食べていたということです。
江戸時代に入ると青森の海で獲れたホタテは漁師料理になりました。
当時ホタテは「貝焼きみそ」としてよく食べられています。
貝焼きみそとは、ほたての貝殻を鍋代わりにして、食材をなべ焼きにする料理のことです。
主に貝焼きみそを食べていたのは陸奥湾で漁業を営む漁師たちです。
彼らは直径20cmほどもある大きな貝殻を鍋代わりにして、陸奥湾で獲れたイワシやサバの切り身に自家製の味噌をのせて焼いていました。
その後ホタテや地元の旬の食材ものせて食べるようになります。
やがて庶民が卵を食べれるようになると、病人や妊婦などが精がつくように食べる特別な料理になりました。
ホタテは150年前の江戸時代末期には、当時の清(中国)に輸出されて外貨を稼ぐ大事な輸出品になっていました。
ただし生のホタテではなく、ホタテ乾貝柱という加工品としてです。
ホタテ乾貝柱とは、ホタテの貝柱を塩水で茹でて天日干しした乾燥ホタテの貝柱のことです。
ホタテ乾貝柱は煎海鼠(いりなまこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)、するめ、こんぶ、寒天、かつお節などの乾物と一緒に長崎俵物(ながさきたわらもの)として清との貿易に活用されていました。
これによりホタテは江戸幕府の重要な財源の1つになります。
そもそも当時の清がわざわざ青森の海で獲れたホタテを欲しがった理由は、中華料理の高級食材として需要が高かったからです。
昭和30年、青森のホタテは「獲る漁業」から「育てる漁業」に大転換します。
その先駆者になったのが、むつ湾の夏泊(なつどまり)半島のある平内(ひらない)町出身の漁師豊島友太郎です。
もともとむつ湾はホタテが生息するには最適な場所です。
およそ10数年に1回の頻度で大発生を繰り返していました。
ただし大量発生している時は大漁、しかしそれ以外はほとんど獲れないという状況です。
ちなみに豊島友太郎以前の漁師たちは、網でむつ湾の海底をさらうと5〜10年物の天然ホタテが獲れたので後先考えずに無制限にとっていました。
当然獲れ高が不安定だったので収入も不安定になります。
そのため漁ができない時のむつ湾の漁師たちは、北海道や樺太方面へ出稼ぎに行くしかありませんでした。
彼らの収入の不安定さを解消しようとしたのが豊島友太郎です。
昭和23(1948)年、山本護太郎博士は世界で初めてホタテの人工採苗(人工産卵)に成功しました。
さらに昭和36(1961)年、ホタテ貝の稚貝の採苗に成功します。
ホタテ貝の稚貝の採苗の成功により、むつ湾での養殖ホタテの生産高が飛躍的に向上しました。
現在、青森の海で獲れる養殖ホタテの共販実績は100億円超えになりました。
毎年、増減はあるもののほぼ100億円超えを維持しています。
また近年は、国内だけでなく海外のマーケットに大きく進出しています。
とくに青森の海で獲れたホタテは海外でも高い評価を得ています。
今回は、青森の海で獲れるホタテの歴史についてご紹介しました。
青森の海とホタテの関係には長い歴史があります。
また現在では青森のホタテといえば、天然ホタテよりも養殖ホタテが有名になりました。
これからも青森の海で、漁師さんたちの情熱と技術でぜひ美味しいホタテをつくっていただけることでしょう。
イベント名 | 青森の海で獲れるホタテの歴史とは? |