みなさんは、太宰治の「津軽」を読んだことはありますか?
この作品では、太宰が3週間の津軽の旅に出かけます。
そして道中で出会う人々、旧友、両親、そして津軽の風土を思い出しながら、はるか昔に置き去りにしていた「過去の自分」を取り戻していく物語です。
作中、太宰は主に蟹田、外ヶ浜、津軽平野、西海岸(小泊)を巡礼しています。
太宰の瞳が抱いた青森の海、そして私たちの目に映る海。
違うようで同じ、同じようで違う一つの海を、「津軽」を通して今一度見つめてみませんか?
序編で、太宰は再び青森の地を訪れました。
そして幼き頃―金木を住まいとしていた頃の金木町や青森市の都会感覚を、東京のまちと比べることで皮肉っぽく、しかし大切に懐かしむ様子が描かれています。?
また、ここでは堤川と青森湾の話題が挙げられています。?
当時は堤川の桟橋で弟と、国語の先生から聞いた「恋人とは赤い糸で結ばれている」という話をしていたのだそう。
その頃の思い出を、太宰はこのように綴っています。
「それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川といふものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのやうに流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬へ方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。」
現在、青森駅の眼下には青森湾に臨むビーチがあります。
昼間は太陽のもとに子供たちを笑顔が輝いて、なんとも明るい表情の海岸ですが、日が暮れると一転して波も空気も静かに佇んでいます。
22時近く、あおもり駅前ビーチに足を運んでみると、男女が流木に腰を下ろしていました。
どちらも、目線は海に向かっていました。
二本の川の水は、大海でしか交わることはありません。
太宰のあの頃のように、たくさんの人々の想いがそれぞれの川を流れ、青森湾という海でひとつになっているのでしょうか。
青森市の東端に広がる浅虫にも、彼の深い情があったようです。
というのも、秋になると弟とふたりで、母と姉が湯治をしていた浅虫へ出かけていました。
母娘が借りていた家で寝泊まりをしながら、受験勉強に勤しんでいたらしいのです。
毎週日曜日には、友人が遊びに来るので、その時は必ずピクニックをしていました。
浅虫での思い出について、彼はこのように振り返っています。
「海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、声をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな気がするのである。」
浅虫は現在でも温泉街として有名です。
水平線を行きかう太陽を、多くの旅人が求めてやってきます。
青い森鉄道の車窓から見える「湯の島」という孤島の背後では、夢から覚めていないような夕焼けが刻々と色を変えていきます。
また、太宰が友人と過ごしたであろう海岸は、「サンセットビーチ浅虫」という名を冠した、ビーチになっています。
サンセットという名がついているだけあって、夕日を眺めるために開けていると言っても過言ではないほど、夕日鑑賞には絶好の場所です。
ピクニックはもちろん、海の家やバレーボール用ネットも完備してあるため、昼まで遊び倒してから、ゆっくり夕日を眺めるのも良いかもしれません。
彼も、このあたたかな夕日を眺めながら眠りについたのでしょうか。
さらに作中にあった津島一家が過ごしたとされる旅館「椿館」は、棟方志功も足しげく通っていたようです。
400年の歴史を経て、現在でも多くの人々に愛されています。
太宰は、青森を三方囲む海をそれぞれ違った表情に見せてくれます。
それは彼の青春、思春期のこころの機微が、未だに青森の海に漂っているからなのではないでしょうか。
今までも、そしてこれからも、海は満ち引きを繰り返して、私たちの想いを遠くまで乗せていってくれることと思います。
「津軽」で太宰は、弘前市や青森市、生まれの金木町とその周辺以外にはあまり精通していなかったという理由から、この「津軽」では、彼が知らなかった青森の場所を周遊しています。
今回の記事では、太宰にゆかりのある土地・海についてご紹介しましたが、次回は彼が新鮮な目で見た青森を追いかけていく予定です。