遠く離れた青森と大阪。
かつてこの2つの地域は「海の道」で密接につながっていました。
そして、その立役者こそ今回ご紹介する「北前船(きたまえぶね)」です。
では、北前船とは一体どんな船なのでしょうか。
今回は青森の海を駆けた帆掛け船・青森と関西をつないだ「北前船」について、どこよりもわかりやすくご紹介します。
北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて、主に日本海側を航行していた商船のことです。
主に、大阪や兵庫などの西日本から、北海道や東北などの北日本をつないでいました。
特徴は単に荷物を運ぶだけでなく、寄港地で商品を買い、別の港で高く売る「買積み」という商法を用いて利益を上げていたことです。
当時、北前船は青森とも密接につながっていました。
北前船という名前の由来は、「日本海を北上して北海道や東北に向かう商船の通称」が名前の由来です。
北前船は、スギやマツなどの頑丈な木材でつくられた木造船です。
大きさは長さ約20〜30m、幅5〜7mくらいの細長い形をしています。
船の中央には、大きな柱(マスト)が立っていて、そこに四角い帆を張って風を受けて進みます。
船底は比較的平らで、浅い港や川にも入りやすいつくりです。
そのためいろんな港で荷物の積み下ろしができました。
船の内部は、大量の荷物を積むための広い船倉が中心の構造です。
ただし乗組員の居住スペースは小さく、船の後ろや前の方に少しだけでした。
頑丈で、どんな海でも安心して航行できるように設計されています。
北前船は、「移動する市場」でした。
その理由は北前船が到着すると、港は市場のように賑わい、商人が集まって取引が行われていたからです。
北前船は日本海側の多くの港に寄港し、そこで荷物を売ったり、買ったりしていました。
今風にいうと、北前船は大きな移動式の「ショッピングモール」や「フリーマーケット」のようなものでした。
北前船は主に北海道で取れる昆布、ニシン、鮭、干しアワビなどの海産物を日本海側や大阪に運び、逆に大阪やその他の地域から米、塩、酒、布などを北海道や東北に運んでいました。
日本海を縦横無尽に駆け巡った北前船。
その壮大な航海のなかで、青森の地は北前船にとって重要な役割を担ってた寄港地でした。
こちらでは青森と北前船の関係についてご紹介します。
青森の港は、本州の最北端に位置し、津軽海峡を挟んで北海道(特に松前や函館)に近いため、北海道との交易に最適な中継地点です。
北前船は日本海側を北上して青森に寄り、その後北海道へ向かい、逆に北海道から本州に戻る際に青森に立ち寄っていました。
特に青森港や野辺地港は、風や波から船を守れる天然の良港で、船の停泊に使われています。
青森は、米や海産物(鮭、ホタテ、昆布など)が豊富な場所です。
これらは北前船で大阪や江戸に運ばれ、高値で売れました。
北前船にとって青森は「仕入れの拠点」として重要な場所でした。
青森は当時、「物流のハブ」の役割を果たしていた場所です。
北海道と西日本の交易だけでなく、東北地方と西日本をつなぐネットワークの中継地でした。
北前船は青森で荷物を積み替えたり、別の船に荷物を移したりして、効率的に交易を行いました。
地元の商人や船主も北前船の交易に参加し、青森は経済的に活気がありました。
北前船が青森の海を訪れた時、一体どの港に立ち寄っていたのでしょうか。
当時の航海技術や船の性能を考えると、寄港地の選定は非常に重要です。
こちらでは北前船の青森での寄港地についてご紹介します。
北前船は野辺地港に寄港していました。
野辺地港は陸奥湾の中にあり、湾が天然の防波堤の役割を果たすため、波や風が穏やかな港です。
そのため日本海の荒波から守られた「静かな港」といわれています。
北前船は冬の日本海で嵐に遭うことが多く、野辺地は船が安全に停泊して休息や修理をする「避難所」のような場所です。
野辺地周辺は、米(津軽や南部地方の米)、海産物(鮭、ホタテ、昆布など)、木材(ヒバやスギ)が豊富で、これらは北前船で大阪や江戸に運ばれていました。
北前船は鯵ヶ沢の港に寄港していました。
鯵ヶ沢の港は、近くの地形や岩礁に守られ、日本海の強い風や波にあっても比較的穏やかな港です。
そのため冬の荒れた海でも、船が安全に停泊できる場所です。
鯵ヶ沢周辺は、米(津軽平野の良質な米)、海産物(イカ、鮭、ニシンなど)、木材(特にヒバ)が豊富でした。
これらは北前船で大阪や江戸に運ばれ高値で売れます。
現在、北前船を見るには、野辺地町常夜燈公園に展示されている北前船の原寸大復元船
「みちのく丸」で見ることができます。
この船は帆走も可能な本格的な復元船で、北前船の構造や大きさをリアルに感じることが可能です。
現在、実際に航行する北前船を見ることはできませんが、復元船、模型、資料館、関連遺産などを通じてその歴史や文化を体験できます。